一、京都到着直後の「完食賞金」と、「Da」との別れ
長かった山口からの旅路の果て、ようやくたどり着いた京都の街。京都タワー下のパチンコ屋に飛び込むと、運良く勝ちを拾うことができた。この時点ではまだ旅仲間の「Da」が一緒にいた記憶があるので、これが京都到着直後の出来事だったはずだ。
その勢いのまま、三条烏丸あたりにあった定食屋(あるいはラーメン屋)へ向かった。看板に掲げられていたのは「完食したら〇〇円支給」というチャレンジメニュー。旅費を少しでも浮かせたい若き日の私たちは果敢に挑み、見事に完食して賞金をせしめた。腹を満たし、少しばかり懐を温めて、京都の街へと繰り出した。
だが、この賑やかな時間を最後に「Da」とは別れ、私は京都の街で突如として一人きりになった。
当時の私にとって、京都という街がどれほど歴史的で素晴らしい場所なのか、その価値を本当の意味で理解するのはもっとずっと未来のことだ。右も左も分からぬまま一人放り出された私は、やってきた市バスに適当に乗り込んだ。
バスの車内で、私は周りの乗客に軽いノリで問いかけた。 「この路線の近くに、何か観光地はありますかね?」
今思えば冷や汗が出るような愚問である。「千年の都・京都」としての誇りとプライドを胸に抱く京都人に対して、あまりにも無神経で失礼な問いかけだ。周囲からは案の定、冷ややかな空気が漂っていたはずなのだが、当時の物怖じしない若かった私はそんな空気など一切気づくはずもなく、適当にあしらわれていたのを覚えている。
二、神戸のおばちゃんと、哲学の道の宿
そんな居心地の悪い車内の空気を助けてくれたのが、たまたま乗り合わせていた神戸出身のおばちゃん(ご自身で「たこ焼き屋のようなものをやっている」と言っていた)だった。京都人の冷ややかな対応を見かねたのか、おばちゃんはこう言って立ち上がってくれた。
「京都の人間が、みんな冷たいと思われるのも叶わんからね」
そう言って、銀閣寺やその周辺の巡るべき寺々を丁寧に教えてくれたのだ。おばちゃんの親切に感謝しつつ紹介された通りに向かい、哲学の道付近にあった古い宿(池田屋や近江屋ではないが、幕末の志士が暗殺の一つでもされそうな名前の宿だった記憶がある)に身を寄せた。
その宿で過ごした2日間、私は観光らしい観光もせず、ただひたすらに「ぼーっと考え事」をしていた。何か具体的な答えを出そうとするでもなく、ただ自分の内面と向き合い、頭の中で思考を泳がせる時間。手元に手記すら残っていないその2日間こそが、私にとって極めて重要な転換点となった。
「ただ思索することだけで、何時間でも時間を潰すことができる」
この京都の宿での孤独で豊かな時間以降、私の中に「思索」という一生ものの武器と習慣が根付くことになったのだ。山口から歩き、大村益次郎の生誕地で感じた「どんな田舎でも学ぶ機会があれば登れるが、登ったところで人間の中身は変わらない」という悟りのような確信も、この京都の2日間の思考の中で静かに昇華されていったのかもしれない。
【余話】東京駅地下ホームの少年と、若き日の自分
あの京都の市バスで、何も知らず、何も怖いものがないまま乗客に声をかけていた当時の自分。その姿を思い出すたび、なぜか強烈に連想してしまう後年の出来事がある。
2015年頃のことだ。成田エクスプレスで東京駅に到着し、地下ホームを歩いていると、ひとりの少年が不安そうにキョロキョロと周囲を見回していた。英国風(あるいはイギリス訛り)のその少年は、私(身長164cm)より数十センチも背が高かったが、どこか立ち尽くしているように見えた。
見るに見かねて声をかけた。
私:「Can I help you?(何か手伝おうか?)」 少年:「Oh, can you speak English?(あ、英語話せるの?)」 私:「Yes. But just a little. And what you…(ああ、ほんの少しね。それで君は…)」
私がそう言いかけた瞬間、少年はパッと表情を明るくして言った。
少年:「Oh, okay!(おーかーい!)」
そう言い残すと、彼はすたすたと歩き出し、あろうことか地上へ向かうエスカレーターとは全く違う方向へ去っていってしまった。
(おいおい、日本人の『ほんの少し』は謙遜だって……!)
あの後、彼は無事に英語の通じる人間を捕まえられただろうか。 当時はまだ今ほどの外国語学習ブームやインバウンドの熱気もなく、街中で臆せず英語で話しかける日本人も少なかった時代だ。相手の「少しだけ」という言葉を鵜呑みにして、根拠のない安心感とともに迷いなく歩き去ったあの少年の無邪気な姿。
何も知らず、根拠もないのに何も怖くなかったあの頃の自分と、東京駅の雑踏へ消えていったあの少年の姿が、どうにも重なってならないのだ。
