一、車窓の大雁塔と「地続きの貧乏の味」
2008年春。あの四川大地震が起きるほんの数週間前のことだ。私は出張で中国の西安と上海へ渡っていた。
表向きの目的は現地子会社の視察だったのだが、蓋を開けてみれば観光と夜のKTV(カラオケバー)での深酒が中心という、なんとも昭和の匂いを残した出張だった。本来この出張は、私が担当していた子会社の50人ほどの視察(日本に連れてゆけるスタッフを見分ける)目的であったが、メンバーにわあわせてもらえず、総経理(社長さん)に人を見せてもらえず、結局「(昭和な意味の)視察」になった。(合わせてもらえなかった理由はあとで判明:”日本語堪能”としていた人材たちはちょっと日常も苦しいレベルだった、、、)
っ観光のリクエストを聴かれたので、せっかくだからと、三蔵法師(玄奘三蔵)が持ち帰った仏教の経典を保存・翻訳するために建てられたという有名な「大雁塔」を観光したいとリクエストしてみた。ところが案内されたのは、タクシーで塔の周りを「ぐるっと一回まわっただけ」という実に大雑把な車窓観光。拍子抜けしていると、その割にはなぜか郊外の「兵馬俑」にはしっかりと連れて行ってくれるという、なんとも基準の分からない現地社員たち(&日本人担当社員)のチョイスには失笑するしかなかった。
しかし、そんな名所巡り以上に私の胸を突いたのは、街の路地裏で出会った「食」のリアルだ。
回族街(イスラム街)で食べた「羊肉泡饃(ヤンローパオモ)」。自分でパン(饃)をちぎって羊肉スープに入れて食べる名物料理だが、正直に言えば決して「美味い!」と感動するような洗練された味ではなかった。どこか大雑把で、洗練とはほど遠い。だが、街外れのバラック小屋のような店ですすった一杯の麺とともに、私にはそれが「インドからシルクロードを渡って地続きで繋がっている、タフで泥臭い『貧乏の味』」のように感じられたのだ。
舌の肥えた観光客を喜ばせるグルメではない。だが、ユーラシアの大陸を生き抜いてきた庶民の熱気とエネルギーがそのまま詰まったその味に、私は言葉にできない独自の感銘を受けていた。
二、上海の営業行脚、フカヒレ雑炊、そして銀行の狂騒曲
西安を後にした私は、営業目的で上海へと渡った。現地支社を拠点に立ち回る日々だったが、ここで経験した食の贅沢さもまた極端だった。
豪勢な中華料理店で出された濃厚なフカヒレスープ。その中にあえて白飯をどさりと投入し、豪快に「フカヒレ雑炊」にしてかっ込む。西安での泥臭い味覚体験とは対極にあるようなB級の贅沢に舌鼓を打ちつつも、ビジネスの現場ではしっかりと異国の洗礼を受けることになった。(これものちに知ったことだが、この時の接待炊いたが日本駐在経験があるたたき上げのお偉いさんで、この食べ方は決してっ上品ではないそうだ。だが旨かった。)
現地の銀行へ両替に向かったときのことだ。たかが両替ひとつ行うにも、日本とはまるで勝手が違う。そもそも交通銀行では両替できず、中国銀行に行かないと外貨交換はできないというのだ。この時は私は幸運なことに英語が喋れる受付嬢に出会えて、この事実を知ることができた。しかし、中国銀行では全く順番が回ってこず結局一旦両替をあきらめるという出来事となる。「まあ、こういうカオスも含めて異国で働くということなのだろう」と苦笑するしかなかった。(順番待ちのカナダ人はもう数時間も待っていると言っていた:これを聴いて私もあきらめた。)
三、重慶への国際電話と、嵐の前の静けさ
移動の途中、重慶にいる知人へ電話をかける機会があった。当時は今のように国際ローミングやSNS通話が手軽に使えた時代ではない。通話しながらも、「いま一秒ごとに一体いくら引かれているのだろうか」と、脳内で通信コストのメーターがぐるぐると回るのを感じ、気遣わしい思いで手短に用件を済ませたのを覚えている。
振り返れば、この出張のわずか数週間後、四川の地は大地震に見舞われ、中国の情勢も急速に変化していった。
あの嵐の前の静けさのような2008年春の西安と上海。雑なタクシー観光と兵馬俑、インドへ繋がる「貧乏の味」、そして上海でのフカヒレと銀行の狂騒劇。なぜか私の旅は毎度こうなる。
そういえば、どの国に行っても必ず「夜間外出はするな」といわれるので、早朝に散歩をする。中国では、夜、ホテルの窓から見えた「赤い肉」を吊るしている飲食店(多分飲み屋)に入りたかったが我慢した記憶がある。横浜中華街の々赤い肉よりうまそうに見えたからだ。夜なので出かけなかった。残念。
朝は、西安、上海ともにおじぃちゃんおばぁちゃんが太極拳(功夫?)をやっていた、日本のラジオ体操よりも熱心である。また、市場に行くとボラのような魚やナマズのような魚、フナの大物のような魚を売っていて「魚の種類違うなぁ、、」などと眺めていた、この時初めて「角」という金銭単位を知った。
この時の手記がある。中身を見ると、万事開始難 と書いてある。中国語を学ぼうとして、始めることが大変だということを話していた(その時は英語?筆談?)際に書き留めたものと思われる。 西安の夜の街は横浜中華街の飾り付けが全体に行われているような状態でばらばらと雑多に飾り付けられていた。
あの夜KTVに私を引きずって行った仲間たち。私を入れて4人だが既に2人は鬼籍。裘総経理とは連絡つかず。もはや思い出である。
